江川太郎左衛門英龍と三島

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江川英龍と蛮社の獄

江川英龍のように早くから蘭学を学び西洋砲術など先駆的偉業を成し遂げようとする人物には必ず抵抗勢力が現われる。例えば先進事業の壁として既得権益を持つ保守的事業や文化団体が是が非でも、その芽を摘みに来るものだ。時には嫌悪の情を顕わにしてあの手この手で攻撃して来る。

これまで私の英龍に対するイメージは、名門の世襲代官家に生誕し、若い時期から蘭学など学習し江戸幕府末期での海防近代化の旗手を務めた人物であるだけに、世間的苦労知らずで、実証に裏付けされた持論を歯に衣を着せず幕閣上司を説き伏せ先駆的事業を成し遂げた一般世間とは乖離した次元が格段に違う人物と見ていた。

ところが、英龍と蛮社の獄を記述すべく多くの史資料に接したところ、幕閣や上司・同士に対して礼を尽くし、下層武士も才能をあれば配下にして活用、上司の権威を利用してもめ事・反対意見など回避しつつ有利に目的事業を具現化している。幕閣の分際を弁え相手を鋭く洞察し臨機応変に柔軟に対応するなど世渡り上手な側面も見えて来る。

英龍も、その優れた先進知識を疎まれ嫌われ、事件に巻き込まれそうになったことがある。
蛮社の獄(ばんしゃのごく)と呼ばれる陰湿極まりない事件がそれだ。日本の海難遭難者7名を助け上げ、一旦マカオの港を経て浦賀の港に送り届に来航したモリソン号に対し幕府は1825年に出された「異国船打払い令」を踏襲して、「問答無用」と追い返えした。

江戸時代まではお上に逆らうことは、その是非を問わず天下の大罪とされていた。現在の感覚では、正に言論弾圧に当たるとされるような事件が起きたのである。
天保10年(1839年)5月に起きた高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件に起因する幕府の鎖国政策を批判し捕らえられて獄に繋がれた事件だ。

これまで江戸幕府より大目に見られていた九州平戸を発祥とする医療をもっぱらとする蘭方医の流れとは別個に、天保年間には江戸を中心として蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まっていた。渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。

この新たな潮流に対し、旧来の国学者(儒学・朱子学)たちは、蔑みをこめて「蛮社」(南蛮の学を学ぶ集団)と呼んだ。後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身であった。幕府は儒学の中でも朱子学のみを正統の学問とし他の学説を排除したが、林家はその官学主義の象徴とも言える存在であった。

一方対外関係においては、インド市場と中国市場を植民地化したイギリス政府にとって、次に日本市場を狙うのは自然ななりゆきであった。蛮社の獄の遠因となったイギリスの小笠原諸島占領計画・モリソン号渡来の背景にはこのような事情があり、幕府幕閣の不安と蘭学有識者を中心とする危機意識を掻き立てていた。

天保8年(1837年)に起こった蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流してしばしば外国船に保護される事例が多く、この事件の渦中となった遭難日本人7名もその事例の一つであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。

天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。艦上砲を持たないモリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩でも同様に上陸をはかったが、やはり砲撃を加えられたため、日本入国を断念してマカオに帰港した。

翌天保9年(1838年)6月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たことを知った。老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。諸役人の答申は以下のようである。
勘定奉行・大小目付・林大学頭(林述斎。鳥居耀蔵の父)

…「漂流民はオランダ船にのせて返還させる」「再来の場合のみ特例で打ち払い反対」
評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)
…「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」
大小目付「再来の場合は打ち払うべき」勘定奉行「再来の可能性は考慮する必要なし」

現状にかんがみて打払い令撤廃のやむをえないことを認識していた水野忠邦ではあったが、撤廃の機運が幕閣間に熟していないことをこの一連の評定によって悟った。12月になり水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。

天保9年(1838年)10月15日に市中で尚歯会の例会が開かれた。席上で、勘定所に勤務する幕臣芳賀市三郎が、評定所において現在進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、渡辺崋山・高野長英をはじめとするその場の一同は、幕府の意向は「打ち払いにあり」と誤解してしまった。

会合から6日後に、高野長英は打ち払いに反対する書『戊戌夢物語』を書きあげた。これは匿名のまま写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』『夢物語評』などが現われ、幕府内に生じた危機意識の炎に油を注ぐことになった。

一方、渡辺崋山も『慎機論』を書いた。国防に関する自らの意見を幕閣に届けることを常日頃から望んでいた崋山は、『慎機論』は幕府の怠惰に憤るあまり、批判的な過激言語を連ねたものになり、自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していた。この眠っていた原稿が、約半年後、家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされてしまう。

天保9年(1838年)イギリス人の小笠原諸島入植の風説に対応し、幕府は代官・羽倉簡堂を同地の調査に派遣し、天保9年(1838年)12月に水野忠邦は江川英龍・鳥居耀蔵に関東沿岸巡見の命を下した。両者は拝命し、打ち合わせを重ねたが鳥居が江川に無断で巡見予定地域を広げるなど当初からいざこざが絶えなかった。

江川は出発にそなえ崋山に測量技術者の推薦を依頼し、それに応えて崋山は長英の門人である下級幕臣・内田弥太郎と奥村喜三郎の名を挙げ、また本岐道平を加わらせた。一方鳥居の配下には、後に蛮社の獄で手先として活動する小笠原貢蔵がいた。

江川は内田の参加が差し障りないかどうか鳥居と勘定所にただしたところ、問題なしとの返事が来た。しかし出発前日の1月8日になり、勘定奉行から内田随行不許可の内意が示された。巡見使一行は1月9日に出発したが、

江川は内田の参加がなければ測量はできないと判断し、病と称して巡検を延期し、勘定所に内田随行の願書を再三提出した。その結果ようやく21日になり随行が許可されたが、これは江川と鳥居という高官同士の対立を感知していた勘定所が政争に巻き込まれることを恐れたためと言われている。こうして内田と奥村は2月3日になって一行に合流したが、鳥居は、今度は奥村の寺侍という身分を問題にし、強引に帰府させた。

江川・鳥居の一行が測量を終えて帰府したのは3月中旬であるが、この頃には鳥居は、崋山が江川と親しく、人材と器具を提供しているばかりか数々の助言を与えていることをつかんでいた。

佐藤一斎の門人で林家に連なる身でありながら蘭学に傾倒した上、友人の儒学者らを蘭学に多数引き入れ、また陪臣の身分で幕府の政策に介入し外国知識を入説しようとする崋山は、林家と幕臣という二重の権威を誇り、身分制度を絶対正義と見なし西洋の文物を嫌悪する鳥居と林一門にとって、決して許容できない存在として憎悪の対象になった。

さらに、折からの社会不安と外警多端によって幕藩体制がゆらぎを見せ始めていることに対する鳥居なりの危機意識、江川に代表される開明派幕臣を排除したい出世欲などが加わり、渡辺崋山を槍玉に挙げ連累として開明派代表・江川英龍を陥れることが、それらの解決策であると彼は考えるようになった。

以上が蛮社の獄発端の概要である。Web上においてしばしば採用される、「測量図製作において鳥居が江川に敗れたのを逆恨みしたため」というのは俗説であり、高野長英の獄中手記『蛮社遭厄小記』からとられたものであるが、そもそも長英は「鳥居と江川・崋山の根深い対立」や、後述する崋山の論文『外国事情書』について知らなかったのである。

3月中旬、沿岸巡見を終えて江戸に帰ってきた江川は、巡見の報告書に付して崋山の意見書も幕府に提出する予定であった。10年近くにわたり蘭学の知識を吸収し国防に関して意見を練り上げてきた崋山にとっても、これは幕府中枢に自分の意見を届けることのできるまたとない機会であった。

日をおかずに崋山は『諸国建地草図』と『西洋事情書』を脱稿し、3月22日に送付した。江川は前者は採用したが、後者は幕政批判の文言が激しいために却下し、書き直しを指示した。この際の『西洋事情書』の草稿が、2ヵ月後の蛮社の獄で幕政批判の証拠として挙げられ、『慎機論』とともに断罪の根拠とされることになる。

江川の希望に従い、崋山は4月23日になり改稿した論文『外国事情書』を先方に送付した。『西洋事情書』が幕府の鎖国政策と怠惰性を激しく攻撃し、もっぱら幕政批判に終始しているのに比べ『外国事情書』は分量だけでも『西洋事情書』の3倍近くに達し、海外知識と海防の具体案で占められている。海外知識に関しては最新の資料が活用され、崋山の蘭学研究の集大成であるとともに、論文としても当時の最高水準に達したものであった。

崋山はこの論文を執筆していることを誰にも明かさず、長英もその例外ではなかった。蛮社の獄における通説の主要なソースである『蛮社遭厄小記』において、この『外国事情書』をめぐる動きについて一切触れられていないのはそのためである。

一方、書き直しを繰り返して完成が遅れたために、崋山が江川に『外国事情書』を送付した4月23日には江川はすでに幕府に巡検の報告書を提出してしまっていた。江川が幕府に報告書を提出した4月19日は、鳥居耀蔵が配下の小笠原貢蔵らに崋山について内偵を命じた日でもあった。

陪臣の崋山が、幕府の業務たる測量行に、それも蘭学をもって介入したことだけでも不審と不快を覚えていた鳥居の感情は、江川が報告書に崋山作成の『諸国建地草図』を付したことでさらに悪化していた。

4月19日、鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに『戊戌夢物語』の著者探索にことよせ、渡辺崋山の近辺について内偵するよう命じた。10日後の4月29日、小笠原は調査結果を復命した。

(当時モリソン号の船長であると誤認されていた)イギリス人モリソンの人物について
『夢物語』は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうという風説、幡崎鼎の人物像と彼と親しい者の名(松平伊勢守、川路、江川、羽倉、奥田、内村)。また彼らは幡崎が捕らえられてからは崋山・長英と親しくしていること、崋山の人柄と彼に海外渡航の企てがある旨、これらを述べた後さらに小笠原は、常州無量寿寺の人間たちと本岐道平が無人島(小笠原諸島)に渡航しようとしており、さらに本岐は単身アメリカまで行こうとしているという、蘭学とも崋山とも関わりのない一件を加えている。

これら一連の情報を小笠原にもたらしたのは、下級幕臣の花井虎一である。彼は蘭学界に出入りして崋山宅もしばしば訪れており、さらにはそもそも無人島渡航計画にも加わっていた人物であった。報告を受けた鳥居は、無量寿寺についてさらなる調査を命じた。

常州無量寿寺の住職・順宣は林子平の『三国通覧図説』や漂流者の日記などを読んで影響を受けたことから、小笠原諸島への移住と開拓を計画していた。そのために花井虎一に地図の借用を頼んだことがきっかけで、渡航計画が鳥居サイドに知られることになったのである。その後花井は鳥居一派に完全に取りこまれ、犯罪の既成事実を作るべく崋山と順宣グループそれぞれに渡海をけしかけるようになる。

一連の調査の結果、順宣らの計画は幕府に許可の願書を出し済みの合法的なものであることが判明したが、鳥居は、この計画に崋山が関与しさらに単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野忠邦に提出した。先年崋山が羽倉簡堂の小笠原諸島の調査に同行しようとしたことも、密航の企ての証拠とされた。

蛮社の獄の狙いは、大局的には開明派の弾圧であり、直接的には江川を通じての『外国事情書』上申を阻むことにあった。鳥居の視点から見れば、これは西洋による文化侵略から日本を守る崇高な行動であった。なお告発状の大部分は崋山への誣告で占められているが、崋山の同調者として羽倉や江川、見分に同行した内田と奥村ら幕臣の名前が批判的に挙げられている。

鳥居の狙いが、崋山の陥れとともに政敵排除と見分に介入されて不快を覚えた私怨を晴らすことにあったということが、ここからも伺える。ちなみに川路聖謨は告発状の中に名を挙げられていない。

水野忠邦は鳥居の訴状を鵜呑みにはせず、配下の者に再調査を命じた。その結果、俎上にあげられた人間のうち、本岐道平を除いて幕臣(松平伊勢守、江川、羽倉、内村、奥村、下曽根信敦)は皆容疑から外された。

5月14日に崋山・本岐・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。高野長英は一時身を隠していたが、5月18日になり自首して出た。これにより、逮捕者は以下の8名となった。

渡辺崋山(田原藩家老。47歳)・高野長英(町医者。36歳)・本岐道平(元徒士。46歳)・順宣(無量寿寺住職。50歳)・順道(同上。順宣の息子。28歳)・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣。66歳)・山崎秀三郎(蒔絵師)・山口屋金次郎(旅人宿経営)

召喚された面々に対し、北町奉行・大草高好によって吟味が開始された。
鳥居の告発状をもとに大草が尋問したところ、海外渡航の企てなどはすべて事実無根であり、さらに花井虎一が崋山に海外渡航をけしかけたこと、また崋山は順宣らグループとは無関係である一方、グループのメンバー斎藤次郎兵衛を花井が一度だけ崋山宅に連れて来たことがある旨を崋山は返答した。

翌15日の吟味では、順宣グループと崋山の突き合わせ吟味が行われた。大草の尋問に対し順宣父子は、崋山という人物は名前も知らないこと、また告発状の中では具体的な渡航計画が述べられているが、これは花井が順宣らにこの通りにするようせかしてきたが、幕府の許可が降りていないために断った旨を述べた。また他のメンバーも崋山と渡航計画が無関係であるとの証言をし、崋山の嫌疑は晴れたかに見えた。

しかしその間も、崋山の自宅から押収された文書類の検査は続けられていた。
5月17日、鳥居は江川に手紙を送った。先月提出された報告書には外国事情を記した文書も付する予定だったそうだが、それがなかったのはいかなるわけか。速やかに提出されたし、という文面は、『外国事情書』の草稿『西洋事情書』を家宅捜索によって確保したことからくる皮肉と嘲笑だった。江川太郎左衛門英龍は、鳥居の「出せるものなら出してみな」という悪意に満ちた意図を察し、『外国事情書』の上申を断念せざるをえなかった。

5月22日に、奉行所で吟味が再開された。崋山の逮捕後鳥居がさらに提出した告発状に記された、大塩平八郎との通謀容疑・下級幕臣大塚同庵に不審の儀があることについても事実無根が明らかになっていたが、無罪の者を捕らえたとなっては幕府の沽券に関わるので、奉行所は糺明する容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えた。

崋山の書類の中から『慎機論』『西洋事情書』の二冊が取り出され、その中に幕政批判の言辞があることが問題とされた。崋山はそれらの文章が書き殴りの乱稿であり、そのような文字の片言隻句を取り出して断罪する非を言いつのったが、聞き入れられなかった。

老中水野忠邦が、幕臣は容疑から外したものの処士横議の風潮を嫌い、崋山や長英の逮捕を是としていた以上幕閣の空気は有罪論に傾いていかざるをえなかった。崋山は取り調べが続く中も、『西洋事情書』を発展させて『慎機論』としたとの虚偽の答弁をした。

『西洋事情書』は『外国事情書』と無関係とすることで、江川の『外国事情書』上申に支障が出ないようにと考えたのだが、江川は前述の通りすでに上申を諦め、5月25日に、崋山の文書を参照した外国に関するごく簡略な短文を提出している。

吟味自体は6月16日に終了した。長英を含む他の逮捕者全員は、有罪を認め口書に書判した。崋山一人が抵抗していたために判決が下りないでいたが、有罪を認める口書についに彼が書判させられたのは、7月24日のことだった。崋山の書判により裁判は一応の結審を見、量刑を決める段階に入った。

崋山の交際は幅広く、幕府・大藩の高官から知識人に至るまで多岐に及んでいたが、彼が逮捕されるや高官や儒学者らは、松崎慊堂とその弟子・小田切要助と海野予介を除けば、こぞって崋山との無関係を強調することに務めた。投獄された崋山の救援のために立ち上がり、奔走したのは、身分が低く新知識にも無縁な絵の弟子や友人達であった。

もともと当時の老中4名のうち太田資始・脇坂安董が崋山に同情的であった上に、慊堂の尽瘁をおもんぱかった水野の意向が加わり、12月18日に崋山に対し在所蟄居の判決が下された。

12月18日に言い渡された判決は、次の通りである。  
渡辺崋山 - 幕政批判のかどで、田原で蟄居。判決翌年の1月に田原に護送されたが、2年半後の天保12年(1841年)10月11日に自刃した。享年49。
高野長英 - 永牢(終身刑)。判決4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄した。脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害された。享年47。
本岐道平 - 無断で鉄砲を作成したかどで100日押し込め。その他割愛する。

花井虎一は誣告の罪で重追放にされるべきところ、犯罪の摘発に寄与した功績が認められて無構え。その後花井は、翌年の4月6日に昌平黌勤番に抜擢されている。昌平黌は林家の所管であり、この異例の昇進には水野忠邦の内意も働いていた。
その後花井は小笠原貢蔵の養女をめとり、長崎奉行付同心に昇進した。義父となった小笠原と共に長崎に赴任し、鳥居耀蔵による高島秋帆の陥れにも一役買ったという。

参考文献[編集]
松崎慊堂『慊堂日歴・5』(1980年 平凡社)
仲田正之『江川坦庵』(1985年 吉川弘文館)
鶴見俊輔『高野長英』(1985年 朝日新聞社)
佐藤昌介『渡辺崋山』(1986年 吉川弘文館)
松岡英夫『鳥居耀蔵』(1991年 中公新書)
佐藤昌介『高野長英』(1997年 岩波新書)
杉浦明平『崋山探索』(1998年 岩波書店)


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