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江川太郎左衛門英龍と三島

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初代〜8代
初代は大和源氏の祖とされる源頼親(みなもとのよりちか)。その祖父は清和天皇の皇孫で臣籍降下した源経基(みなもとのつねもと)という格式を得ている。後世の江川家が清和源氏のうちの大和源氏の流れとされる由縁でもある。初代が大和守(やまとのかみ)となって、大和国(奈良県)に勢力を築き、以後「宇野」を姓として8代までは大和国に居住したと伝えられる。 

※初代・源頼親 (みなもとのよりちか)は、源満仲の子で頼光(摂津源氏の祖),頼信(河内源氏の祖)は兄弟。清和源氏の一流大和源氏の祖。盗賊捜索などに従事し,「武勇人」「つはもの」として知られていた。藤原道長直属の貴族武士として数国の受領を歴任したが大和国守は3度におよび,南大和(奈良県)に勢力を扶植することになった。同国在任中,藤原氏の氏寺興福寺と氏社春日社,それに東大寺(いずれも奈良市)との間で土地をめぐる争いをしばしば起こしている。
※2代源頼房は父・源頼親が3度目の大和守に就いたとき、興福寺僧と合戦し,多くの死者を出したことで訴えられ,そのあおりで頼親は土佐国(高知県)に流され頼房は隠岐(おき)へ流されたが、摂関家の配慮をもって南大和に帰郷を許されている。

※5代・源 親治(みなもとのちかはる)は、4代・下野権守源親弘の子。兄弟に基親、基弘、基重、親満、伊予内侍らがあり、子に有治、清治、満治(光治)、義治(俊治)、親家、業治、頼基、季治らがある。大和国宇智郡宇野荘に住した。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎につながれていたが、戦後赦免されて本拠の大和国に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。

※その後、6代〜8代まで大和国宇智郡宇野荘に土着し宇野姓を名乗り荘園管理に懸命な努力を重ねるが摂関家の当該地域の関心の弱まりに相俟って院政の開始により平氏武士団の大和地区への進出、加えて興福寺・東大寺・山宝院などの積極的荘園拡大などにより小規模域を脱し得ない貴族土着武士にとって抗し得ない状況下となり断腸の思いで伊豆国への移住を決意するに至ったものと思われる。


9代〜22代
9代宇野親信(うのちかのぶ)が、平安時代の最末期、13人の従者とともに伊豆の山木(ヤマキ)と呼ばれる現在地に移住した。10代・宇野治長(うのはるなが)が至近にいた源頼朝の伊豆旗揚げを参加助成した功で江川荘(山木一帯の土地)を安堵されたことにより、領域支配が確定した。以後、鎌倉幕府から室町幕府にかけて、山木(ヤマキ)土着の豪族として勢力を築いて行った。

16代英親(ひでちか)が日蓮に出会って改宗し、それ以後今日に至るまで熱心な日蓮宗の檀家になっている。

江川姓への改姓も21代英信(ひでのぶ)との説があるが、それ以前にも江川殿と呼ばれていたようで、鎌倉時代に入って源頼朝の姓と苗字の弁別統制により安堵された地名を苗字として使用すべき指針にしたがい捨て切れない宇野姓と領地名に基づく江川姓の両建てで来たものを武家時代の趨勢に倣って江川姓に絞ったものと思えるのである。


23代〜27代
 しかし、少なくとも、北条早雲が伊豆討入(うちい)りをして韮山城に入った時に、23代英住(ひでずみ)が早雲の家来となり、以後、後北条氏に仕えたこと、また江川酒を醸造して名声を得ていたことは、江川家以外の史料があって確かめられる。後北条氏に仕えた約100年のことを、家譜はある程度伝えている。


28代〜38代
 28代江川英長(えがわひでなが)は,小田原北条氏の麾下(きか)にありながら,徳川家康に通じ,1590年(天正18)韮山開城に功あり,家康関東入部にともない,1596年(慶長1)4809石の土豪代官に取り立てられ,徳川家康より井桁に16花弁の菊の紋を賜っていることが注目され、後代の将軍も初代・家康が任命した代官であり、これに倣ったことから、以後明治に至るまで、代々「世襲代官」として活躍している。28代以降、家督相続した当主は代々「太郎左衛門」と名乗っている。

35代江川英毅により、玄関部分の改築や書院の整備が行われ、旗本家の威容が整えられた。英毅は民治に力を尽くし、農地の改良・商品作物の栽培など天領の増収に尽くす。文化人としても名を残している。長命だったために英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835年)、35歳の時とやや遅い。

36代江川英龍(えがわひでたつ) は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。
洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。

37代江川 英敏(えがわ ひでとし)は、天保10年(1839年)、第36代当主・江川英龍の三男として生まれる。安政2年(1855年)に父が死去した(2人の兄は既に早世していた)ため、家督を継いで第37代当主となり、太郎左衛門を称した。
天保10年(1839年)生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の作成などを次々と推し進めたが、家督を継いでから7年後の文久2年(1862年)に夭折した。享年24。継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継いだ。

38代江川英武、1853 - 1933。号は春緑。英龍の五男。明治維新のときの当主。廃藩置県後は韮山県令となるが、まもなく岩倉使節団に随行、そのまま留学。その後は地域教育に尽くす。
江川英文1898 - 1966。英武の子。東京大学教授で、法律学者。専門は国際私法。財団法人江川文庫を設立、江川家代々の資料を研究者に公開する。

英武の孫である41代現当主も、近年専門家二十余名による江川文庫調査団をたちあげ、英毅・英武よりもっと大規模な整理・研究が開始されている。



36代・江川英龍(えがわ ひでたつ)の履歴

1801年(享和元)父英毅(ひでたけ)、母久子の次男として韮山で誕生

1818年(文政元)江戸に出て、神田の神道無念流、岡田十松道場に入門本格的な剣道を修業する。
道場四天王と呼ばれる兄弟子 斎藤弥九郎につく。二年後には免許皆伝となった。

1821年(文政四)兄 英虎が病死したため嫡子となる

1823年旗本北条氏征(うじまさ)の娘と婚姻

1824年韮山代官職見習(江戸、本所屋敷)母久子を見舞う

1830年(天保元)母久子 病死 母久子からは、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」と「忍」をさとされ、以後「忍」の文字を書き、懐中に携帯した。

1834年父英毅 病死

1835年 韮山代官就任
江戸にて、高野長英、渡邊崋山等の蘭学者の集い「尚歯(しょうし)会」が始められる。
後に「尚歯会」に参画。

1837年 剣友 斉藤弥九郎を手代に、大塩平八郎の乱後、弥九郎と甲州微行(びこう)に出、一揆(いっき)を事前に抑える。
このように領内における英龍の善政に対し、民衆から「世直し大明神」といわれた。

1838年 米船モリソン号が浦賀に来航以来、英龍や川路聖謨(としあきら)等は、海外文明の進歩度合や非戦論を幕府に差し出す。

1839年 鎖国維持派目付 鳥居耀蔵(ようぞう)の副官として、浦賀付近を測量。

1841年 高島秋帆(しゅうはん)、江戸 徳丸原(とくまるがはら)で砲術の実演をする。その後入門し、高島流砲術を修める。

1842年 江川塾を開き、佐久間象山をはじめ、全国の多くの藩より韮山へ入門者が訪れた。
一方、韮山で大砲(青銅製)、小銃製造が本格化。

1846年(弘化三)蘭、英、仏、露等、外国船の来航しきり。開国を求められる。幕府の主要ポストも移動しきり。

1848年(嘉永元)砲製造先進の佐賀藩主 鍋島直正と会(かい)す。後々、反射炉や洋式鋳砲の技術交流がなされた。

1849年 英艦マリナー号 幕命を受け下田より退去させる。
(蜀江(しょくこう)の錦)イギリス軍艦マリナー号が下田へ入港し、英龍が時の下田奉行にかわって退去交渉をした折、この装束を着、立派な統率者として、軍艦を退去させることに成功した。

1850年 実子に種痘をし、成功。種痘接種を広める。

1851年 農兵の必要性を上申。

1853年 米国使節ペリー浦賀入国。
幕府海防掛(かかり)勘定吟味役格となる。
品川台場築造の命を受け、設計、起工。
高島秋帆を手代にし、中浜(ジョン)万次郎を手附にする。
反射炉築造の命を受ける。

1854年(安政元)ペリー再来日。日米和親条約調印。
下田、函館開港される。
中浜万次郎は徳川斉昭(なりあき)の反対で通訳方としては使えず、蘭英辞典の作成を命ず。
反射炉を韮山鳴滝に築工始める。
品川台場完成。
ディアナ号座礁見分救助、新造船建造を戸田にて着工。
病勢悪化、幕府より勘定奉行の命下り江戸へ。

1855年1月16日本所にて死亡。
韮山本立寺に葬られる


江川家暫定家系…現在追調中であり、今後修正される可能性高く、参考までにとどめて下さい。


 1源頼親    大和源氏の祖、藤原道長直属の貴族武士、大和の守に3度就く。

 2源頼房    興福寺僧と合戦し死者を出し隠岐へ流されたが赦免復帰する。

 3宇野頼治

 4宇野親弘

 5宇野親治 保元の乱に戦う。後白河天皇に戦後赦免され大和国に戻される。

 6宇野有治

 7宇野満治

 8宇野俊治

 9宇野親信 13人の従者とともに伊豆の山木(ヤマキ)に移住する。

10宇野治信

11宇野行治

12宇野定治

13宇野国治

14宇野仲治

15宇野英治

16宇野英親 日蓮に出会って改宗し、日蓮宗の檀家となっている。

17宇野英友

18宇野友治

19宇野英信 江川姓に改姓する。

20宇野英房

21江川英住

22江川久朝

23江川英住 北条早雲が伊豆討入り韮山城に入り、早雲の家来となる。

24江川英盛

25江川英景

26江川吉茂

27江川英吉 寛永2年7月17日没,享年80才

28江川英長 徳川家康に代官に取り立てられ、世襲代官の基盤を創る。

29江川英政    代官,寛永10年3月22日没,享年39才

30江川英利    寛永10年遺跡のち代官,享年42才

31江川英暉    寛文6年遺跡・代官,享年53才

32江川英勝    正徳1年9月2日遺跡・代官,享年45才

33江川英彰    享保16年11月9日遺跡 寛延3年5月19日代官,享年44才

34江川英征    宝暦8年11月4日遺跡・代官,享年 53才

35江川英毅 寛政1年8月19日生 寛政4年5月4日遺跡

36江川英龍 享和1年5月13日生 天保6年代官,安政2年1月16日没.

37江川英敏 天保10年生,安政2年遺跡・代官,文久2年没.享年23才

38江川英武 文久2年遺跡.英敏弟,最後の代官

39江川英文

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