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江川太郎左衛門英龍と三島

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【韮山笠】

坦庵公が考案した農兵用陣笠。これをモチーフとして、三島農兵節を踊る。女性の笠に転用され今日に及んでいる。

農兵は代官江川坦庵公が創案したもので、富農家の子弟を集め洋式調練を実施したものだ。

武士以外の人々に軍事調練を施すことは当時としては画期的なことで、全国から見学者がひきもきらなかったといわれている。



【パン祖のパン】

坦庵公が考案した兵糧用パン。韮山代官跡にパン祖と記された石碑が建てられている。

現在、韮山の有志がパン祖のパンを復元しようと努め、平成23年6月三島市主催で行われた食育フェア2011で開催された韮山ブースでも復元パンが提供された。

試食させていただいたが、味は淡泊・・・パン祖のパンという味あいがして、イチゴやブルーベリーとマッチするのではと感じた。



【農兵】

外国文化と進歩的発想に深い理解と研究を怠らなかった太郎左衛門は、長崎伝習から帰った家臣柏木総蔵から珍しい音律を聴いたのである。

そして西欧風な豊かなリズムは忽ち太郎左衛門の心をとらえ、青年と歌… 調練の名案が頭に浮かんだ。

そして若い農兵達の行進歩調に合って、この行進曲は新式銃を担いだ青年の人気に投じたのである。
 
文久三年、坦庵の子英武の時代、幕府は江川氏の農兵調練の実益を認めて、ここに漸く制度として法令を定め、韮山代官支配地である武州八王子と相州藤沢の二ヶ所に調練場を新設し、大いに農兵の調練に当った。
 
この故事にあやかり、昭和初期に東海道筋で流行っていたノーエ節を元に平井源太郎により農兵節が作られた。

三島市役所敷地の北東の隅に「農兵調練場跡」の碑が建っている



江川英龍と西洋砲術

江川英龍は、韮山代官として幕府直轄領の民政に尽力する傍ら、蘭書(らんしょ)の研究にも力を注いでいた。中でも兵学の分野には特に関心を持ち、西洋における陸海軍の編成法、築城術や守城・攻城法、小銃や大砲のような火器の製造技術とその運用方法などについて、多くの知識を得ていた。

そこから導き出された結論は 「歩兵・騎兵・砲兵の三兵を柱とする西洋式の軍制にもとづき、西洋式の小銃・大砲を導入し、それらの火器を集団的に運用する」 というもの。

それは、江戸時代を通じて続いてきた軍役(ぐんやく…大名や旗本が、戦争時に自らの石高に応じて決められた兵力を動員する制度)による部隊編成や、火縄銃に代表される武芸としての和流砲術を否定することでもあった。

英龍は、書物による理論の研究だけでなく、西洋式の砲術を自ら習得することを試みている。そこで坦庵が 注目したのは、高島秋帆(たかしましゅうはん)という人物だった。
長崎会所調役を務めた高島秋帆は、天保3年(1832)から5年にかけて、オランダから兵学書・砲術書とともにモルチール砲臼砲(きゅうほう)や燧石(すいせき)式ゲベール銃を輸入し、西洋砲術の研究を始めていた。

既に父四郎兵衛とともに荻野流の砲術を修め、和流砲術にも通じていた秋帆は、出島に出入りしてオランダ商館長とも接触できる自らの立場から、より進んだ西洋の砲術を知り、強い興味を持つようになって行く。秋帆は、取り寄せた西洋砲を用いて実験を繰り返した。

また自らも青銅製の臼砲を鋳造するなど積極的に研究を進め、やがて西洋砲術を 自己の流派として確立して行く。その秋帆に、英龍は代官役所の手代・柏木総蔵(忠俊、後に足柄県令)らを入門させ、西洋砲術についての情報収集を行わせている。

天保11年(1840)、アヘン戦争で清国がイギリスに敗退したとの報に接した秋帆は、幕府に「天保上書」を提出して西洋砲術採用を進言している。それを受けて、老中・水野忠邦(みずのただくに)は江戸徳丸原(とくまるがはら…現東京都板橋区高島平付近)において、西洋砲術による演習を実施するように秋帆に命じた。

天保12年5月9日、高島秋帆・浅五郎父子が指揮して、砲隊24名・銃隊99名による大規模な演習が行われました。演習には、 柏木以下9名の韮山代官所関係者も参加しています。この日の演習では西洋式大砲の実射、銃隊による突撃・斉射などが披露されました。

演習は成功裡に終了し、幕府は秋帆から大砲を買い上げ、かつ西洋砲術を旗本一名に伝授すること決定しています。そして、その伝授を 受ける人物として選ばれたのが、江川英龍である。英龍は早速正式に秋帆に入門し、高島流砲術(西洋砲術)を皆伝(かいでん)される。

翌天保13年6月には、他者への高島流砲術伝授も許可され、これ以後江川英龍のもとには、英龍が高島秋帆から習得した西洋砲術を学ぼうとする幕臣や諸藩の藩士が、数多く集まってくるようになった。その中には、佐久間象山(さくましょうざん…兵学者・松代藩士)をはじめ、幕末維新期に活躍した人物の名を見いだすことができる。

英龍は、自らの屋敷(現在の江川邸)を家塾として開放し、入門者たちに西洋砲術の技術を伝授しました。これが通称「韮山塾(にらやまじゅく)」と呼ばれているもので、天保13年10月から坦庵が死去する安政2年(1855)正月までの間に、およそ280名が学んでいる。なお、この塾には正式名称がなく、「韮山塾」と いうのは、塾生たちが便宜的に使っていたものと見られる。

英龍は、入門者に砲術を伝授するにあたって、講義で理論を学ぶのはもちろんのこと、実地訓練をも重視していた。そのため、韮山では実際に大砲や小銃を使っての試射が頻繁に行われている。韮山代官所手代・長澤鋼吉が記録したカノン砲の試射記録には、砲弾の重量や火薬の量、射角と着弾の関係などの数値が記されており、きめ細かい訓練が行われていたことが分る。

嘉永6年6月のペリー来航を契機に、老中・阿部正弘(あべまさひろ)は、英龍を勘定吟味役格(かんじょうぎんみやくかく)海防掛(かいぼうがかり)に任じた。以後英龍は、江戸湾防備の実務責任者として奔走することになる。しかし英龍は、激務による疲労の蓄積からか病を得、安政2年正月、自ら手がけた数々の事業の完成を見ることなく他界してしまう。

安政2年6月、坦庵の後を継いだ江川英敏(えがわひでとし)に対して、幕府から芝新銭座(しばしんせんざ)に 八千数百坪の土地が下賜され、そこに大小砲専門の演習場と付属の建物が設置された。芝新銭座大小砲習練場と呼ばれることになる。

この習練場では、幕府の徒組(かちぐみ)が入門して西洋砲術を学んだのをはじめとして、数多くの幕臣が伝授を受けており、諸藩士の入門者と合わせると、その人数は三千人以上にのぼっている。

その中には、井上馨(いのうえかおる)、 黒田清隆(くろだきよたか)、大山巖(おおやまいわお)など、明治維新で名をなした西南諸藩の人材も含まれていた。

英龍亡き後、入門者の指導に当たったのは、韮山塾時代に伝授を受けた友平栄(ともひらさかえ…壬生藩士)や岩倉鉄太郎(川越藩士)らと、韮山代官所の手代として共に砲術を学んだ岩嶋源八郎・長澤鋼吉などでした。

習練場には理論を学ぶための学塾も併設されており、そこでは後に幕府の歩兵奉行となる大鳥圭介(おおとりけいすけ)らが招かれ、語学を講義していた。また、築地に設けられた軍艦操練所との交流も盛んで、榎本武揚(えのもとたけあき)や福地源一郎(ふくちげんいちろう…桜痴(おうち)、後の東京日日新聞主筆)、福沢諭吉らもしばしば訪れている。

上述したように、幕末における西洋砲術導入への動きは、高島秋帆による西洋砲術の大成、江川英龍への伝授、英龍による「韮山塾」での教授、英龍の死後その子息・弟子たちによる芝新銭座大小砲習練場での普及など英龍の西洋砲術構想は確実に地歩を固めて行った。

そしてそれは、文久・慶応期にようやく実現しはじめた幕府の軍制改革の中で、講武所(こうぶしょ)そして陸軍所として形となり、その後、明治維新後の陸海軍にも受け継がれ、日本の近代化を支える基盤の一つともなっていった。

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