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江川太郎左衛門英龍と三島

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江川英龍が農兵採用を強く求めた背景には、幕府による海岸防備体制の不備があったからに他ならない。江戸時代の海岸防備は、一元的に組織されているものではなく、複数の藩がそれぞれ担当区域を分担して警備にあたっていた。つまり、非常時には各藩が担当区域に個別に兵を派遣しなければならない。しかし、藩自体が財政難だったり遠隔地だったり内陸部に位置している場合など、緊急時に派兵が遅れたり、派兵するたびに多額の費用がかかったりするなど、不合理な脆弱的側面を多く抱えていた。

先ず外国船がやってくるであろうと予測できる外交の玄関口・伊豆下田を任されながら、その防備策の不十分さを痛感していた江川英龍は意を決し、天保10年(1839)5月「伊豆国御備場之儀ニ付申上候書付」という建議書を幕府に提出する。
「平時は農民で、非常時に武器を与え、調練時には苗字帯刀を許す」という建議だ。

「農兵は早急に役立つものではないが、日を重ねて訓練すれば、必ず国家の御役に立つものである。定期的手当にはおよばないが、調練には経費を必要とする。また、武器弾薬も幕府から貸与して訓練に出精させ、若干褒美を与え、上達した者には1〜2人扶持を下し、さらに緊急事態などで非常勤務につく場合には手当を支給し、功ある者には褒賞をしてやれば、すすんで稽古をするようになる」と書き添えてもいる。

実験と論理を重視する江川英龍は、建議書提出中にて幕府より正式許可を得ていない段階にて、自国領内での采配の下で韮山代官所東隣の金谷村農家の青年を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したと口伝されている。今でも日本中で使われる「気をつけ」や「右向け右」や「回れ右」などの掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものと伝えられている。

実際、韮山代官所の膝元にあたる金谷村の農民の一部は、かねてから洋式の小銃などを用いた訓練を受けていたことは史実のようだ。たとえば、安政元年(1854)のペリー再来航の際、アメリカ側との交渉の一端を担った江川英龍は、交渉にあたって代官所の手代らと共に金谷村の農民からなる一隊を鉄砲隊として随伴している。

農民に武器を持たせるという唐突な江川英龍の提言は「兵農分離」という幕府の根本政策に抵触する訳で、幕閣からすれば言語道断という提言であり幕府は却下している。

江川英龍の卓越した能力を評価したのは、時の最大権力者、老中・水野忠邦だった。
西洋事情や西洋武器・技術の習得に長けていた江川英龍、川路聖謨、それと羽倉外記という伊豆から房総地方を治めていた3人の代官がいたが、その3人を抜擢したのが水野忠邦だった。江川英龍を幕府の鉄砲方にまで就かせている。
水野忠邦は高島流西洋砲術などにも関心を持ち、幕府軍も西洋式の近代軍制に移行させる時期到来を予感していたのかも知れない。

ところが天保14年(1843)に上知令の失敗で水野忠邦が失脚すると、水野一派と目された英龍は川路らと共に左遷され、英龍は鉄砲方を罷免され、代官職だけをやらされることになる。

しかし、弘化1年(1844)〜弘化3年にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に相次いで来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。更にフランスインドシナ艦隊司令官セシュが長崎に来航するなど、日本列島に外国船が次々に来航するようになり、幕府の鎖国政策は次第に手詰まりの感を呈して行く。

嘉永2年(1849)閏4月にイギリス船のマリーナ号が江戸湾に現れ、幕府に無断で測量を始めるという前例のない事件が起きている。直ちに下田奉行が退去勧告を出すものの、艦長は、どこ吹く風で全く相手にせず測量継続の手を緩めない。

早速、白羽の矢を立てられたのは江川英龍。マリーナ号館長との交渉相手に任命される。
江川英龍も交渉役を国防上の好機として応諾し、最高級の野袴と陣羽織をあつらえ、手代たちにも新品の羽織を買い与えて交渉に臨んだと伝えられている。政府の役人であると慇懃無礼に挨拶すると、マリーナ号艦長は、江川英龍の威風堂々とした態度と、海事諸般にも精通した毅然とした論調、レベルの高い通訳などに圧倒恐縮して、マリーナ号は直ちに退去した。

この難題解決により江川英龍は外交面にて再評価されるところとなり、翌年、嘉永3年(1850)6月に至って「豆州下田湊海防御備向存寄之趣申上候書付」を幕府に提出している。
提言の趣旨は「下田港の常備軍の設置、江戸湾の台場築造に加え、伊豆・駿河の天領から農兵を取り立てて備えたい」とのこと。つまり、江川英龍は、天領での農兵取り立てと台場の建設を提言している。

水野忠邦が失脚した後に幕府最高権力者の座についたのは老中・阿部正弘だったが、彼は当初江川英龍や川路聖謨らを「水野一派」として疎んじていたものの、しだいに外交軍事に優れた人物と評価するようになり、川路聖謨も勘定奉行へと取り立てられている。

幕府内部でも、江川英龍の意見に多少耳を傾ける雰囲気が出始め、その提言も一部では理解されるようになり、農兵の利便性も半ば認められるようにはなったものの、親交の深かった川路聖謨ですら「一揆や反乱を警戒し、兵農分離の大原則を曲げることには大きな抵抗を感じていた」ようで農兵採用の決定は遅々として進まぬ状況にあった。

結局、農兵計画の実現を見ないまま安政2年(1855)1月に英龍は55歳で世を去っている。しかし、家督を継いだ息子の37代・江川英敏(えがわひでとし)は引き続き農兵策を幕府に建言し続け、その弟・38代・江川英武(えがわひでたけ)の代の文久3年(1863)幕府から江川太郎左衛門支配の代官領で農兵(農民による洋式近代武装兵)の設置が認められた。

その後、韮山代官領以外の幕府領や諸藩でも、兵力増強のための農兵制度採用が相次ぎ、幕末期には全国的な拡がりを見せるに至っている。ただ、その訓練度の高さや装備の充実度においては、韮山代官領の農兵にまさるものはなかったといわれている。このことは、来るべき時代を見据えて早くから農兵制度実現への準備をしていた江川英龍の、先見の明によるものといってよい。


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