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旧石器時代の神津島と伊豆半島間の渡海舟として動物の骨や内臓をくり抜き、風船のように皮袋を膨らました複数個の浮袋に笹竹を組んだ筏を用いたのではないかと推測した。
 35000年前という途方もない大昔から現代までを鳥瞰する見方を与えてくれたのは、黒曜石分析に携わる多くの日本の科学的研究者達である。

 旧石器時代後期といっても数万年という途方もない歳月を数える。この間、神津島と伊豆半島に芽生えた海人の崇める海神(祖先神)の子孫たちは渡航術を磨いて行き、舟の改良を重ね、渡航距離をしだいに伸ばして行き伊豆半島近隣のみならず房総半島・紀伊半島・牡鹿半島・津軽半島・四国南岸・鹿児島半島・北九州・出雲・能登半島・男鹿半島へ足を延ばして行ったに違いない。 この間、当然日本列島周辺の島々も立ち寄っている筈である。縄文海進により9000年前頃出現する瀬戸内海は一番遅い渡航訪問となった。
したがって、瀬戸内海に祀られる神社は天皇制が確立される頃に全て遷座されたものであり、考古学的渡航の歴史を鑑みれば、特に海神の祖神発祥の地とはなり得ないことを頭の隅に置いて貰いたい。

 さて、ここで縄文時代の外洋船を考えてみたい。稲の伝来を鑑みるに、長年蓄積された渡航術を有する縄文人(倭人)の活躍があったのではと強く思えるからである。大型の木造構造船が存在したとは言わないが、小さくとも安全に航海できる舟を使い確実に航行できる操船術を有していた可能性を探りたい。

 私は一つの小型和船の集大成と見られるモデルを、今もなお伝承される島根県松江市の美保神社の祭に使われる諸手船(もろたぶね)としたい。木造の準構造船であるが、船首が尖っておらず、構造が竜骨や肋材を持たず、古代の丸木舟以来、外板が応力を受け持つモノコック構造であること、両手で櫂を握り漕ぎ手が前を向き前進させること、黒く塗布されていること、船体が大きくないこと、漕ぎ手が8名でスピードが出せることなどの特徴を持っている。


 むろん、縄文人(倭人)の舟に諸手船(もろたぶね)級の構造があったとは謂うつもりはない。時代が違いすぎ道具などの技術背景が無かったからである。ただ、技術は連綿と踏襲されるものだから縄文古代船は、たぶんモノコック構造だった筈と考えている。縄文時代に準備可能な材料と技術はどんなものがあったのか、縄文時代の遺跡から出土する遺物からヒントを得るしか方途は無い。

 着目せざるを得ないのは、やはり丸木舟。旧石器時代の遺跡から発掘される丸木舟は縄文時代に入ると全国の遺跡から200隻内外発掘されている。しかし、大半の丸木舟は何故か掘り込み深さが浅く、左右には舷側を付けようとする加工跡も見つかっておらず、丸木舟単独での外洋渡航は困難視されよう。
 全長も短い物も多く、川や湖などで使う丸木舟では無いかと別の構造体を色々考えてみた。

丸木舟
瀝青アスファルト
籃胎漆器

 他に注目されるのは、三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)その他遺跡から出土した籃胎漆器(らんたいしっき)である。樹木や竹のひごを編んだ籠にベンガラ漆を塗ったもので、編み込みの技術力の高さに驚かされる。もう一つ着目したのは北海道・青森・秋田をはじめ全国の遺跡から出土した瀝青(天然アスファルト)である。旧約聖書に記されるモーセのパピルス籠やノアの方舟の防水に使われたアスファルトが、遥かに遡る縄文時代に使われていたのである。

 上記の遺物は、縄文時代のダイナミックな交易と植物栽培の継続を背景とする手工芸の発展向上を雄弁に物語っている。これまで過小評価されて来た縄文時代は、予想をはるかに超えた文化水準に達していたのである。近年まで私達日本人は、進んだ技術や文化は何でもかんでも中国大陸からの移入と考えられて来たが、下記に詳細を述べるが漆は日本独自の自生植物であり、中国の殷遺跡より発掘された漆器より数千年も遡る縄文遺跡から籃胎漆器が発掘され、漆文化の中国への輸出説も語られ始めている。

 更に注目されるのは、中国の殷王朝における主要貨幣に使われた沖縄ないし伊豆八丈島産の宝貝(コヤスガイ等)の供給者は縄文人(倭人)ではなかったか、という見方もある。なぜなら、内陸内部の文明では遠路航海し得る舟は無かったろうし渡航術も稚拙だったと見るのが自然だからである。糸魚川産の翡翠や隠岐島・姫島・白滝産の黒曜石が大陸の遺跡から発掘されるなど海洋民族・縄文人(倭人)による渡航活動によるものと思われるのである。貝はめったに自国民直接入手困難品だったから貨幣に使われたのである。

殷王朝で貨幣として使われた宝貝・コヤスガイ

 さて、中国の古文献を紐解くと朝鮮半島南岸・中国大陸南岸に倭人が古より存在していることが記せられている。大陸の人々は鯨面分身(入れ墨)をもって倭人と認識していたようで、東方の島国から来ている海人と判別している。遠路航海のため水補給等のできる陸地に寄港地として港町(部落)を築いていた可能性は高く、紀元前後には倭人(縄文人)は中国大陸に間違いなく渡航していたことが分る。

 中国の殷(いん)(約3600〜3000年前)の遺跡から漆器の一部が発掘されていた(紀元前13世紀の棺桶の塗料として用いられていた)ので、漆器は中国が発祥地で、漆器の技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9000年前の縄文時代前期の漆器が見つかり、また漆木のDNA分析の結果、日本のウルシの木は日本固有種であることが確認された。このことから、漆器の日本起源説も主張されるなど漆器の起源については議論が続いている。日本では垣ノ島B遺跡の出土品に次いで約6000年前の朱塗りの櫛(鳥浜遺跡)も発掘されている。現在、中国で最古の物は長江河口にある河姆渡遺跡から発掘された約7000年前の漆椀である。(日本で縄文時代に作られていた漆器は朱のみ。黒の漆器は弥生時代以降)。河姆渡遺跡や殷王朝の漆DNA分析が進めば倭人(縄文人)の足跡が更にクローズアップされるかもしれない。

 亀卜(きぼく)の中国発祥説も怪しくなってくる。常識的に大陸内奥の人々は海に疎遠で海に対し強い畏怖心を抱いていたと推察される。したがって渡航に対する技術的発展はBC2000年頃までの古代中国において特筆すべき舟の成長は垣間見られず、命がけの渡航は極力避けていた筈と見られる。魏志倭人伝において倭人は良く潜水して魚介類を採取すると特徴を述べている。大陸人は滅多に海に潜水せず魚介類も倭人ほど精力的に採取していないと読み取れないことも無い。巫女を同行して亀卜(きぼく)の甲羅を殷王国に運んだのは航海術に優れる倭人(縄文人)だったと考える方が自然でなかろうか。その主人公は伊豆海神族の分派とされる壱岐か対馬の重要中継基地の末裔だった可能性は高い。

 縄文時代早期に陸稲を日本にもたらしたのは渡来人では無く倭人(縄文人)の可能性は高い。大陸水稲種の8種類の中から2種類の上質米を選別し持ち込んでいることから陸稲栽培に習熟した倭人(縄文人)が日本の風土や味覚に適合した水稲米を厳選し日本に持ち込んだ可能性が高い。全中国には8種類の水稲の遺伝子が存在するが、朝鮮には7種類の遺伝子が確認され、日本で最も栽培される優良米1種類が朝鮮半島に欠如されることにより、これまでの定説であった稲の朝鮮半島経由説は否定されることに至り、長江下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)から直接移入されたとの説が有力になりつつある。生粋の中国人が戦禍を逃れ稲を携えて渡来したという定説も水稲栽培が相当古い時代と判明しつつあることから、当時の彼らが有する渡航能力を鑑みても疑問符を打たざるを得ない。アイヌ人・倭人・琉球人が共有する世界的に極めて特異な遺伝子は、中国並びに朝鮮半島の人とはっきりと相違していることからも裏付けられている。

 ところで話は飛ぶが、これまで歴史の要とされて来た「記紀」について触れるが、天孫族が降臨してから天下統一に至るまで、何故に永年の歳月を要したのか疑問に思われる人も多かろう。天空を航行できる天鳥船で降臨して来た神の力を有す者が、どうして大きな戦争の歴史を一度も持たない縄文人を簡単に平定できなかったのかという疑問である。その答えは、縄文人の技術文明力は天孫族に比し遜色の無いレベルであったということだ。

 聖徳太子の「和をもって貴しとなす」ではないが、天孫族と海神族は、どちらの子孫もが公平確実に残せる誓約(うけい)の道を選択した。そして、どちらの神も天つ神として最上級の位につき神道の礎を築いて行く。天孫族は確実に天皇制への道を歩み始め、海神族の末裔は天皇の外祖父として権勢を保持し、その分家は地方豪族へと分派して行く。農耕社会を基盤に置く「租・庸・調」の制度が確立され、海神族の末裔は制海交易権が許され、お互いがウィンウィンの関係にあった訳だ。

 歴史を余りにも細かい視野から見ると物事の本質が見えなくなる。出雲の国譲りも、その時点で例えば事代主神そのものが誕生現存したという解釈では無く、何万年間、事代主神を崇拝する海神族の末裔が金太郎飴のように連綿と繋がり、その一断面の事代主神を祀る代表が国譲りに遭遇したものと捉えた方が「木を見て森を見ず」という過ちを犯すことが無いような気がする。とにかく海神族の祖神は息が長いのである。

イザナギとイザナミの二柱の神は、天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。また、『古事記』などではそののち2神で島を産んだというものである。その一つの島「淡路島」は約9000年前の縄文海進により生じた瀬戸内海上に生じた島である。35000年前の海神の祖神達の誕生から比べると遥かに浅い歴史である。

 「記紀」において、何故か異民族間の言語の障壁に関する記録が無い。特に神々間において意思疎通は全く感じられない。これは何を意味するかだ。日本人の血液DNA分析並びに言語解析などを鑑みても、大陸半島からの渡来人は極めて少数だったことを意味する。私は倭人(縄文人)の大陸半島からの出戻りと解釈している。つまり、相当古くから倭人の村落が大陸半島南部や河姆渡遺跡(かぼといせき)付近に形成され頻繁に日本本土との交流がされていたとの説を取る。韓国において約8000年前の松の木の丸木舟が発掘されたとの新聞報道に接した。約12000年前〜7000年前まで大陸半島の樹木状況を勘案した上でDNA鑑定結果を進めるべきと思う。外から持ち込んだ丸木舟だった可能性は無いと否定はできないだろう。

 私は「古事記」を作った目的は、海神族に対する天孫族からの友好のメッセージと解している。そこには天孫族と海神族の度重なる婚姻が述べられ、深い同一の血族であることを公けにしている。婚姻の方程式は男が天孫族、女が海神族である。王は時の状況により男女の区別は無かった。卑弥呼(ひみこ、170年頃 - 248年頃)や臺與(とよorいよ、235年頃 − 没年不詳)は海神族の姫だった筈で、強力な海神族のバックボーンが無ければ紛争は回避される筈が無く、打てば響くような外交のタイミングは中国交易を介しての情報収集能力がなければ不可能である。海神族は豊かな海産物を持ち、全国の鉱物資源を知り、舟による機動力輸送力を有し、通訳力と占い力を有し、津(港)の要所に分派した部族を有し情報収集力を持つ、全国統一を目論む天孫族にとって強い力となった筈である。

 天孫族が困った時、海神が顕われ舟で移動する。遠征の前に海神がスパイの役目もしている。そして舟の提供もしている。有名な无間勝間(まなしかたま・編目の無い堅く編んだ籠の舟)に注目したい。
後世の人は籠舟が浮く筈がないとして死者のあの世への送り出しだろうと理解しているが、私は无間勝間に着目した。そして縄文時代の遺跡から出土する籃胎漆器に裏付けされる材料と技量とに思いを馳せた。籠を造れる材料と堅く編み上げる技量があり、瀝青(天然アスファルト)と丸木舟があれば、籠舟は成立する筈である。丸木舟を船底にしてその上に堅く編んだ籠を乗せ、両者を堅く連結一体化させ天然アスファルトで編目の表裏を塞ぐ。場合によっては籠を二重三重として、船長を長くし一部密閉室を設ければ荒波でも対処できる。小型船であれば丸木舟本体は、モノコック構造に違いないが、同時にまるで竜骨の役割を果たし船底への外部圧力破壊を免れしめ、砂浜接岸時の擦過裂傷防止にも役立つ。

 日本書紀には668年天智天皇即位の年に越の国から燃える水と燃える土が献上されたという記述がある。燃える土とは瀝青(天然アスファルト)、時として石炭ないし泥炭だったであろうと解釈される。古代人はアスファルトを土と理解していた。つまりスサノウの乗ったとされる土船の正体は黒いままの籠舟だったと理解できる。ベンガラ漆で塗色された籠舟は古墳から出土するベンガラ染めの船形埴輪と符合する。目の粗い籠舟とは上記アスファルト籠の上に接岸裂傷補強のため荒編み籠を被せたと理解される。私は横揺れ防止のため遠洋航海には丸木舟二台を使用する双胴船スタイルの籠舟であったとにらんでいる。

 船形埴輪を基に舷側や船首船尾まるごと木材で復元され実験航海されているが、その結果、重心が高く安定性が悪く、横揺れにより操船が難しく、重量過多により前進させることが困難だったようである。
埴輪は全部土で作られている。だからと言って本物の舟が全部木で造られていると短絡することはできない。丸木舟から上の舷側や船首船尾部は軽くなければ重心が高くなり重量も重くなり、人が乗れば更に条件は悪くなってしまうのは自明の理である。

 それにしても船形埴輪の一部の船首と船尾を見るに、ほぼ垂直に反り上がり二本の横木が通され、まさに神社の鳥居の如くの形状を呈しており、鳥居の発祥は様々語られるようだが、もしかしたら出航から帰港するまで安全無事を祈り命を託す古代船の構造に鳥居の隠された起源があるのではと思えてくる。


 縄文時代より伊豆は、造船の地だったのである。やがて枯野船、伊豆手船の大船が建造される。軽野船は全長30m、100t以上の巨船で、伊豆から難波まで回航され、応神天皇が朝夕使う清水を汲む業務に就いたと「日本書紀」にある。また、崇神天皇に献上した巨船の建造地は、西伊豆町仁科の入江で鍛冶屋浜の地名があり、造船に携わった製鉄工が住んだとされる。本文にないが、松崎町の伊那上・下宮の「伊那」は、造船匠の大陸からの出戻り人(倭人・縄文人)・猪名部氏に由来するという。
ちなみに伊豆の古代船「軽野or枯野」は、世界のカヌーの語源ではないかとの説を唱えられ始めている。

 そして軽野船の建造地は、伊豆市松ヶ瀬の軽野神社付近とされ、狩野川上流域にある。狩野の地名は、枯野→軽野→狩野に転訛される。それにしても山間が造船地になりうるのかの疑問に、良質な船材の自生地、建造船は川下りで海に送り出されたとする。現在の狩野川では考えにくいが、むかしは水量豊かで、川船が頻繁に上り下りし、筏流しが行われていた「川の道」であった、とする。考えてみれば、縄文海進当時は伊豆市松ヶ瀬は海岸付近に立地していた訳で昔は狩野川の下流にあった。狩野川に合流する大見川沿いには上白岩遺跡が存在、その上流部にはワサビで有名な筏場という地名も残されている。

 伊豆手船は、伊豆で造られた船および伊豆風の船の意味で、すぐれた性能の船の総称となる。当時、東国から徴集された縄文人が遠く北九州に送られ、外敵に備える防人(さきもり)として国境警備にあたる。大和朝廷の水軍の根幹となり、北の蝦夷、粛慎、西の新羅との戦いに就航したに違いないと推察する。

 奈良平安時代に建造された遣唐使船は、伊豆で造られたものと系統が異なる威信をかけた大型船が、何故か広島県呉市倉橋町(江田島)に出現する。大人数を乗せ大量の献物を乗せ表装豪華な遣唐使船は19回の渡航歴が知られているが度々遭難し、渡航が成功したのは8回だけと伝えられている。
 竜骨や肋材を持たないモノコック構造の大型和船は荒波など外力に弱く、人と荷物の積み過ぎが手伝って沈没の憂き目となった。何万年もの海神族の歴史をわきまえず中国大陸の文明導入ばかりに目が眩んだ当時の新鋭貴族層の勇み足になったのであろう。学問の神とされる菅原道真は「絶対に帰れない」と主張し遣唐使船の幕を下ろしている。

遣唐使船

 加えて伊豆手船を虚仮にされた東シナ海を熟知した海神族の末裔達は伊豆手船以外の遣唐使船の脆弱性を見抜きけっして搭乗しようとせず渡航歴の浅い乗組員による操船だったのではと私は見ている。
 モノコック構造の限界は伊豆手船の大きさまでと気が付くのは江戸時代末期のロシアプチャーチン率いるディアナ号の津波沈没事故に伴う伊豆の戸田における洋式帆船「戸田号」建造を待たねばならなかった。
 
  奇しくも和船の進歩の歴史は伊豆で始まり伊豆で終わったのである。そして、日本における洋式帆船は再び伊豆において産声を上げ、その後の造船界の一歩を歩み始めたのである。
 その陰に、安政の大地震による津波被害復興に全力を挙げつつ、「戸田号」建造への大工・資材・食糧手配や、お台場の建設、韮山反射炉建設など邁進し過労死した江川太郎左衛門英龍が居たことを我々は忘れてはならない。

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