韮山代官江川太郎左衛門(坦庵公)がしきりに幕府に海防の急務を説いたことは、史実に明らかである。そして坦庵が管下の青年に洋式農兵調練を実施したのは嘉永三年正月のことであった。
このことは幕府の正式許可ではなく試案であったが、旧式兵制から蘭式の新式兵制にうつったのであるから、諸藩の兵制改革論者は先を争って見学に韮山・三島詣でとなり、このため三島の宿役人はその応接に暇がない程であった。
訓練場は現在の三島市役所の位置、韮山代官所から鉄砲役人が出張して指導に当たり、ついにここに我国最初の民兵が産声を上げたのである。
英龍は、鉄砲射撃訓練・農兵用陣笠・兵糧用パン・反射炉・大砲・冷却用水などを考案、後には江戸のお台場建設などに取り組み日本に押し寄せる黒船に互角に対処すべき諸策を講じつつ、下田外交において絢爛錦織装束にて交渉に応ずるなど八面六臂の功績を残している。
韮山高校に「忍」の一文字を残し、三島には「農兵節」を残している。
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