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江川英龍とペリー来航

幕末期での西欧各国列強の進攻に対し何故日本国だけが、中国を含む東南アジアが植民地化を余儀なくされたのに対し、徳川幕府は曲がりなりにも抗し得たのか考えて見たい。そこには様々な幕臣達の努力があった筈で、それらを否定する積りは無いが、歴史を鑑みれば、そこに江川英龍の功績が相対的に浮き上がって来るのが不思議である。

18世紀後半から19世紀にかけて、イギリス・アメリカ・フランス・ロシアなどの列強各国は、産業革命による工業生産力増大と、それに支えられた強大な財政・軍事力を背景に、アジアに植民地化の嵐を巻き起こしつつあった。日本を除くアジア諸国はまたたく間に彼らの餌食となった。彼らと対等に交渉していくためには、少なくとも相手に対して抑止力となるだけの軍事力を持つことが肝要となる。

しかしながら、当時の日本の軍事対抗力も、長年にわたる鎖国政策の中で17世紀初頭の状態のまま陳腐脆弱化していたため、旧態然の海防のままでは、外国の最新鋭の海軍力には太刀打ちできないのが現状だったことは否定できない実態であった。

その実態をズバリと指摘したのが林子平(はやししへい)だった。天明8年(1788)から寛政3年 (1791)にかけて刊行された『海国兵談』の中で、子平は「江戸の日本橋より唐から阿蘭陀(おらんだ)まで境無しの水路也なり」と大胆に看破して、「海国」である日本の海岸防備体制の遅れに警鐘を鳴らし続けた。

時の老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)は、いたずらに人心を惑わしたとして『海国兵談』を発禁処分としたが、その一方で、海防政策を積極的に推進しようとしてもいた。それは、自ら相模・ 伊豆沿岸地域の視察を実施し、諸藩に海岸防備の強化を命じているところからも窺える。しかし、改革の挫折と 定信の失脚によって、彼の目指していた海防強化計画は完成を見ないまま終わっている。

文化・文政期(1804〜1829)には、それまで警戒されてきたロシア船に代わって、イギリスの捕鯨船などが多く来航するようになる。この頃の幕府の方針は、「異国船は理由にかかわらず打ち払うべし」という強硬路線を踏襲していた。それは、文政8年(1825)に定められた異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)や無二念打払令にも表れていると思われる。

しかし、天保期(1830〜1843)になると、そのような対外強硬姿勢が現実的な対抗策ではないということが次第に明らかになって来る。特に天保11年(1840)、アヘン戦争において清国がイギリスに敗北したという情報がもたらされると、老中・水野忠邦(みずのただくに)は打払令を改めて薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を定め、外国船に対して柔軟な対応を取るようになっている。

その一方で西洋砲術を導入して軍備の近代化を図るなど、いわば硬軟両様の政策を展開しつつあった。ところが、忠邦の進めていた天保改革が事実上失敗に終わり、忠邦自身が政権の座を逐われたことから、またしても総合的な海防政策の 推進は棚上げとなってしまったのである。

このように、幕府の海防政策が統一的なものとして確立されないまま、日本はペリーの来航を迎えることとなる。嘉永6年(1853)6月、ペリーを司令長官とするアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に来航、合衆国大統領M・フィルモアの親書しんしょを受け取ることを幕府に強く要求して来たのだ。

蒸気船2隻を含む4隻の黒船には、大小合わせて63門もの艦載砲が装備されていたが、江戸湾を防備する各藩の備砲は、威力・射程距離共に、それらに遠く及ばなかった。江戸城と江戸の市街は、ペリー艦隊の脅威に、ほとんど無防備でさらされる事態となった。僅か4隻の黒船に江戸市中は蜂の巣をつつくような騒ぎとなった。

このような黒船到来の時代の前から、10万石以上におよぶ幕府直轄領を管轄していた韮山代官・江川太郎左衛門英龍は、洋式軍事学問を土台として、代官として海岸防備の観点から、数多く来航する外国船に対してどのようにして海岸線や江戸湾を守るかについて現実的な海防構想を練り上げていた。そして、自らの考えを幕府に度々上申してもしていた。

しかしながら、度重なる老中の失政解任劇が続き、江川英龍の建議上申の具現化は一進一退を余儀なくされるところとなり、台場建造・安政の大地震被災者への対応・ロシアディアナ号事件に関する洋式帆船建造への対応・洋式砲術の普及対策・鉄製大砲製造のための反射炉の築造など数多くの事業が江川英龍の両肩に重く圧し掛かるところとなった。

顧みれば、安政の大地震を契機として、江川英龍の表舞台は整いつつあった。彼は其々の事案に強い情念と感激を覚えつつ真面目過ぎるほど努力を惜しまなかったに違いない。過労は彼の体躯を蝕んで行くが、母から授けられた「忍」の一字が彼の心情に刻まれていた。

英龍は、代官の上に立つ勘定奉行に就こうとしている今が面白いと感じていたかも知れない。下田・戸田・韮山を行き来するだけでも体力を消耗する。そこに幕府から江戸に戻るよう通達が来る。勘定奉行を下知するというのだ。

止せばいいのにと思わるのだが、英龍は江戸に向かった。単なる出世欲に駆られての旅とは思えない。彼の代官時代にことごとく事業計画を打ち砕かれた大きな壁が勘定奉行の存在だった。その壁が無くなれば自分の描いて来た洋式軍備は急速に進展するに違いないと思った筈だ。結果的に英龍は江川家江戸屋敷において息を引き取っている。

江川英龍の業績としてよく知られている、西洋砲術の導入・反射炉の建設・江戸湾内海台場の築造・洋式船の建造・農兵採用論などは、すべて海防上の必要から導き出された実際的かつ先駆的な業績であったといえよう。



江川英龍と老中(水野忠邦と阿部正弘)

天保元年(1830年)江川英龍の母・久子が病死、天保5年(1834年)に父英毅が病死、翌年の天保6年(1835年)に家督を継ぎ代官に就いている。代官となった天保期は、幕府政治の上では水野忠邦が老中首座となって「天保の改革」を推し進めようとした時期でもあった。

老中・水野忠邦は、内政面では都市への人口集中を抑える人返しの法や、物価引き下げを狙った問屋・株仲間解散令、年貢増徴と江戸への水路確保を目指した印旛沼(いんばぬま)干拓に着手している。

一方、外交面では、それまでの異国船打払令を懐柔した薪水給与令(しんすいきゅうよれい)によって異国船に対して臨機応変的な対応を取らせる一方で、海岸防備体制を強化し西洋砲術の導入を図るなど、数多くの政策を打ち出している。

英龍は、水野の下で代官としての高い行政能力を評価されるとともに、西洋事情に明るい開明派の実務官僚として各種の海防論を建議し、西洋砲術の導入にも積極的に関与して行くことになる。

しかし、英毅水野忠邦が上知令(あげちれい…江戸・大坂周辺の私領を幕府領に編入する法令)をきっかけに失脚したことで、英龍もまた幕政の表舞台から一旦身を引くことを余儀なくされている。英龍が再び活躍の場を得るには、嘉永6年(1853)のペリー来航を待たなければならなかった。

ペリー来航をきっかけに、英龍の存在は老中・阿部正弘ら幕府中枢部の注目を集め。早速勘定吟味役格に抜擢された英龍は海防掛をも兼ね、更に、幕府より勘定奉行の命下り江戸へ向かうなど多忙を極め、安政2年(1855年) 1月16日の死の間際まで、江戸湾防備の実質的最高責任者として奔走することになる。

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