【旧石器人の生活は侮れない】
私たちは歴史を遡れば遡るほど文明や技術力は未発達であ
ると考え勝ちだが、そうで無い場合が歴史の中に多々見受け
られる。
例えば、紀元前3世紀の中国の秦時代(始皇帝)の兵馬庸遺
跡から発掘された青銅の剣は錆びておらず光輝いており
人々を驚愕させた。ところが、それ以降の時代の銅剣は朽ち
て原形をとどめていない。
現代の科学者の調査ではクロムメッキされていたという。
この銅剣の凄さはメッキされていない茎(なかご)剣を握る部
分の形状も崩れが無く素材そのものも後世の青銅器とは数
段上質の鋳込みがされていたことを意味し、刃部の形状も日
本刀に似て狭い刃幅である。後世の青竜刀は強度不足を補
うため刃部を広めに取らざるを得なかったことと比較するに
次元が違う技術といえる。
なぜか、その古い時代の高い技術が断絶して後世に繋がら
なかった。クロムメッキは90年前に発明されたばかりの新し
い技術であるのに、紀元前に存在していたのである。
世界で最古の法隆寺の木造建築は、なぜ腐りにくいのか?
木の専門家によれば、釿(ちょうな)による木の表面仕上げに
あるという。後世に造った鉄で作った釿(ちょうな)では仕上げ
がうまくいかず、法隆寺に残されていた古釘から作った釿(ち
ょうな)でなければ永年保持し得る柱や板は作れないと明言
している。古代の匠は既に凄い術を有していたのだ。1千数
百年前に作られた鉄の品質が後世の鉄を凌駕しているの
だ。江戸・明治・大正・昭和と進むにしたがい木造建築の朽ち
る期間が短くなり、人々は住宅ローン苦に喘いでいる。 |
中国紀元前3世紀・・・秦の始皇帝・兵馬俑の銅剣

世界最古の木造建築・法隆寺
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日本の旧石器文化に発見される斧形石器の刃部磨製例は、名実共に「磨製石斧」と呼べる形態を示す器種である。世界の旧石器時代遺跡からの磨製石斧の発見例は少なく、オーストラリアにやや集中して発見されている例は非常に特殊なものである。
日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3〜4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。
黒潮圏の考古学より抜粋(小田静夫著)
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ハルシュタット塩坑から発掘された皮袋


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【まさかの技術の出現】
人間が本当に必要とし一事に没頭するならば、時代を超えて、まさかの技術が出現する。
旧石器時代は狩猟に命がかかっていた。こと獣に関する知識は縄文時代や弥生時代を凌ぐものだったに違いない。
捕った獲物は毛皮・肉・骨・内臓など解体し全部利用した筈であり、その知識や経験は漸年蓄積されていった。
当時氷河期で今のシベリア並みの気候とされているので裸での生活は不能視され毛皮の防寒着が作られたと推察される。特に乳幼児の防寒対策は不可欠とされ、幼児が歩行可能となるまで女と子の移動は制限され、女と子を守るため男まで遊動が制限されたかも知れない。お産定住はあったのではと考える。
つまり、毛皮の服や寝具が必要不可欠だったということは、皮の裁断と縫う技術が発達していったと見るのが自然であり、服を作れる能力があるなら、紐(植物の皮、獣の腱)、物入袋、水袋、空気袋、靴、手袋、帽子、敷物、テント、毛皮の寝具など何万年もの歳月をかけて生活用具を考案して行き作っていた可能性が高いと思われる。
現代人は裁縫と聞くと、すぐに針と糸とハサミを連想するが、竹や小枝や骨の先端を黒曜石で尖らし、後部に作った割れ目に紐を引っ掛け縫い上げれば可能なこと、骨の針に小さな穴を穿孔する必要は無い。切断は黒曜石を使った。
また、胃や腸も袋として利用し、獣の皮袋の中に水と食料を入れ焼石を投げ入れ調理した可能性も否定できない。
植物への知識も深まり、獣の皮を人のつばきか植物のタンニンでなめす技術も有していたかも知れないが、全て腐ってしまい物的証拠は残っていないだけだ。 |
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神津島の黒曜石が海を越えて古くは3万5千年前の遺跡から発見された。黒曜石の産地が特定できる現在の科学技術があってこその証明であり縄文時代を遥かに飛び越えて旧石器時代に何らかの渡海技術を有していたことを裏付けるものであり世界四大文明:メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明より遥か昔に日本の地で航海していた事が明らかになったのである。
この四大文明の原初的舟としては、丸木舟では無かった。エジプト・インダスは葦舟、メソポタミア・黄河は皮袋の筏であり、いずれも丸木舟と違って浮力が分散する複数の浮力体を有していることで危険分散という観点からいえば安全性が確保されている点である。
葦は1本の浮力は小さくとも大量に用いれば絶対に沈まない舟となる。獣皮の浮き袋も大量に用いれば万が一どれかが破裂しても問題はない。むしろ丸木舟より安全性は高い。竹か木を組み合わせた筏に浮き袋に装填するだけで良く、労力もかからず軽いので運搬もし易い。
これなら、太い幹を切り倒す事も無く、重い幹を運ぶことも無く、それを二つ割にする必要も無く、中をくり抜く磨製石斧も必要が無く、細い竹や細い木片を獣の腱か丈夫な植物の皮で結べば事足りる。
渡海以前の水上移動が河川からだったと推定した場合、竹の筏も可能性の高い原初的水上移動手段であったとされる一つである。後々の木の舟に成長して行くきっかけになる諸要素(先端部が上に反り返る・横木を要する・剛性など)が似ており、木造船へ発展して行く前段階の試行的考案のステップだったとも考えられる。竹+葦(アシorヨシ)+皮の浮き袋の混成も考えられ、木造の舟と帆の発明まで相当な期間と試行錯誤を要したものと思料される。
いずれにせよ、彼らの指導者は万が一の備えとして水袋と救命浮き袋を乗せ、複数台の筏を一斉出航させたかも知れない。 |
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今でも使われている黄河流域の羊皮浮き袋の筏
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原初的な竹の筏

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チグリス・ユーフラテス川の原始的ヨシの筏
●川なので波が小さく多くの物資を四角い筏で運んいる。図
の右下には首の無い豚のような生き物が描かれ獣の浮き
袋を使用していたことを暗示している。
●左下には大きな舵のようなものが描かれているが、装着
方法などの知見は無いが、舵の発生を示唆している。
●上の図面上部奥には長細く数珠繋ぎの浮遊体が描かれ
ているが、どのような物体なのか知見は無い。
●上の図面の手前にオールが二本描かれているが、右手
前の筏は突き竿のようなものが描かれている。 |
現在でも活躍するチチカカ湖の葦舟↓
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左の絵は獣の皮を数人で膨らましている様子が分る。既に獣の頭が落とされ、足の先端は紐で縛られているものと思われる。
毛のある外皮は内側にひっくり返され、植物のタンニンで皮がなめされているかどうかは分らないが、背後の椰子みたいな木々がなんらかしら暗示しているかも知れない。
旧石器時代と一口に言っても4万年前と1万5千年前と技術的進歩や生活環境など大分違っていたと思うので、帆(皮製)や梶(木製)や櫂(木製)の有無や発生時期などは謎のままに終わりそうだが、レリーフには帆が描かれていない。 |
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左の図で面白いのは一人が浮き袋に乗っているか体側の棒に浮き袋を引っ掛けドルフィンキックかバタ足で浮きを推し進めている様子が描かれている。
海中に居る人物が仲間なのか奴隷なのか分らない。筏に乗っているのは押している人と対面しているので、長いオールを漕いでいると思う。先端が輪っか状のオールみたいなものが二本描かれているので前に二人いるものと思われる。
先端が板状で無く輪っか状の方が板を削る必要が無く、細い樹木の先端を火に炙って丸め網状(膜状)の物を輪っかに被せたかも知れない。筏下部側面の模様は皮製浮き袋と見られる。
石板に彫刻し得る能力があったから、後世の人々が紀元前の筏の存在や構造概略が把握されたのであり、それ以前に遡っては筏や渡海術が無かったと断言は出来ない。原初的な海への第一歩は、浮き袋を携えた浅瀬の遊泳だったことを左の絵から感じられる。 |
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【伊豆諸島の海流と渡航の立地条件を考える】
縄文時代さえ考古するのに闇の中、旧石器を探るのは闇の闇の中、空想するしかない。
次に、伊豆半島の南東部に位置する伊豆諸島の海流を調べてみた。言うまでも無く旧石器時代の潮流を知りたいところだが、世界中の誰でもデータは持っていない。
したがって、現在の潮流をたたき台として渡海の難易度を探りたいと考えた。
右図は平成23年8月某日Web公示された海洋短波レーダー局により観測された海流図である。もちろん海流は日々刻々と変化し潮汐により変化するので参考にとどめたい。
ここで、指摘したかったのは西から東へ時速約7kmで流れる黒潮本流は北から南へ蛇行し年々ルートを変えるが、大体相模湾沖の黒潮ルートは八丈島と御蔵島や三宅島間を通ることが多く、例外はあっても神津島以北の島々には黒潮本流が流れることは滅多に無いことが現在では知られている。
黒潮の支流や逆流が神津島から利島に至る海域は、例えば右図のように海流は北上するか逆流潮により西進・西南進する場合があり、海流は複雑に変化するものの、八丈島から伊豆半島へ黒潮本流を横断して渡海する場合とくらべ、伊豆半島から神津島への渡海の難易度は低いものと推察される。さらに利島以北の海流の速度は低減するものと思われる。
ただし、駿河湾と相模湾の沖合の黒潮本流は鞭のように蛇行変化が大きく、それにともなう時々刻々黒潮支流の向き変化や速さは、当時の経験則での海流予測は不能視されよう。
仮に河津から出発して利島に向かうとし、北へ海流が1〜2ノットで流れていたと仮定するならば、南東方向45°斜めに横断したことが予測されるが漕ぐ労力を要する。昼間の渡航が原則だった筈で、採掘採集作業もあるので1日で往復できない場合は、採掘現場で泊まった可能性は高い。
帰りは、同じ条件の海流とすれば、西に向けて出港したと思われるが、風向きや海流の加減で寄港地変更もあった可能性も高い。利島を出港地とするならば、真西0°〜北西80°位まで航海誤差が許される立地条件と謂える。
いずれにせよ、海流が北上している場合はかなり潮流が速くとも相模湾岸方向に流される訳だから、南方へ流され黒潮本流に流される事にくらべて命にかかわる心配は少なかったと類推するところである。 |
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【渡海のスピードを考える】
海における浮き袋筏は、縄文時代の丸木舟より波に対する安定性は良いが、海水の抵抗が高く、風の抵抗も大きく受け易いことから人力により、どの位スピードが出せれば、空が明るい内に島に辿りつけるのだろうか考えてみた。
水抵抗の小さいシーカヤックの平均速度が時速5km内外と考えれば河津見高から利島まで海退を考慮して約30kmとして約6時間で到着する。海流変化や風向き変化を考慮しても10時間かかると見た方が無難かも知れない。
概ね6時間から10時間で利島に到着可能を可とするならば、浮き袋筏は時速5km〜時速7kmのスピードを出さなければならない。当然ながら、シーカヤック1人に対し筏1人では海水抵抗だけでも勝ち目が無い。どんな櫂を使い何人で漕いたら実測として時速5km出せるのだろうか?計算が出来る筈がない。筏の構造が闇の中であり、抵抗値が出せないからだ。
ただ、言えることは向い合う潮の流れを1〜2ノットと仮定するならば少なくとも最低時速7km出さなくてはならない。
そのためには、当該筏の構造は幅広では抵抗損失が大きくなり幅は狭く、漕ぐ人数を増やさなければならない場合は縦長の構造にしなければならない。
筏は極力軽くし、船首船尾は水の抵抗を減らす三角や流線形にしたい。そのため、船首と船尾には竹や葦などで造作する。壊れても良い。なぜなら本体は沈まないからだ。 |
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【渡海ルートを考える】
左の図はGoogle earthを切り取り字と絵を挿入した。Googleearthのとても便利なところは、画面をクリックすると海抜や海深の値を示してくれることであり利島から新島から神津島までの島間の海深数値を見て行くと-100mより浅い部分が多いことが分る。
繋がっていたかどうかは別にして、利島から神津島までの距離は約40kmある。また、伊豆半島の伊東市南部から下田まで、当時は海退により神子元島(みこもとじま)は陸続きと見られ同じく約40kmある。
つまり、一片を約40kmの並行四辺形内が渡海ルートと推定される訳で、この間の黒潮支流の向きやスピードや風向きにより出発地や到着地を変えていた可能性がある。
例えば、出航日が矢印のように相模湾に流れ込む北上する海流と読んだ場合、河津見高方面からの出航では、まともに海流とぶつかり合う形となり、進むに労力を要し、場合によったら大島の方へ流されてしまう恐れもある。
したがって、海流が北上と観た場合は、神子元島(みこもとじま)辺りから出航したことも考えられる。当初の操船技術は相当アバウトだったと想像されるので横に約40kmの誤差が許され北上する海流を横切る形で前進した方が無理が無い白の三角形の渡海ルートを選んだと推測する。流されても利島に辿り着けば良い。
また、帰りは神津島から島を右に見ながら北上する海流に乗り利島に一旦行き、そこから真西から北北西まで横に約40kmの誤差が許される赤の三角形内の渡航ルートをとったのではないかと思われる。
彼らが恐れていたのは絶対に南へ流されない事の一点であった筈で太陽の方向に流されないことだけを守った。
そして、目的地に近づき浅瀬の移動は突き竿を使用し、岩礁にぶつかりそうになったら竿で突いて避けたと考える。
陸揚げ後は、伊豆半島の南北の移動は海退によって生じた水平な海岸線が続き、現在の途切れ途切れの海岸線と違い南北の移動は容易(筏を引っ張って徒歩)だったと思われ渡河や海岸線が没した場合は筏に乗ったかも知れない。
梶の有無については分らないが、潮流の速さが増し方向が変わるなど不測の事態を配慮して、仮に二隻の筏が同じ方向に流され操縦不能となった場合、一隻の筏を放棄してメインの筏を補助メンバーが泳いで押し、方向を補正するなど緊急手段もあったかも知れない。黒潮の水温は温かい。
この地域の海の民は同じ目的を共有し従来の単独行動から協同行動に脱皮して行ったに違いない。そして、意思疎通し合える複雑多岐にわたる古代言語を獲得して行った。 |
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高台へ登れば双方の島影は良く見通せるものの、海上に出れば見通しが利かなくなる。島へ渡る時の目標は太陽と三宅島(大島)の噴煙だったのではないか?
もちろん毎年噴火している訳は無かったろうが、かなりの頻度で噴火し、一度噴火すると長期間噴煙を上げ続けていたに違いない。
伊豆半島に向かう時は太陽を背にして大島ないしは富士山・箱根が噴火した際は噴煙が目印に方角を判断したのではと思われる。
黒潮本流から離れ出発点から到達点まで約30kmの行程で横に約40kmの誤差が許される環境だったことは彼らにとり幸運だったに違いない。そして定期的渡航が舟の改造につながり渡航技術の進歩になって行く。
仮に利島から神津島まで複数の島々が繋がっていたとするならば、海流の流れに応じて東周りするか西回りにするか判断し利島に行き、利島から伊豆半島に向け出航したと思われる。
熱海伊豆山の走り湯は昔勢いがあり遠い海上から湯煙が確認されたと伝えられ、当時河津町の湯煙はどの程度だったか知りたいところである。 |
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